2014年9月28日 日曜日 晴れ
こんにちは。東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内し、お墓づくりのお手伝い(墓石の製造加工と、墓所への据付施工工事)をしております石材店の大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
前回の記事「・埼玉県さいたま市 岩槻城に行ってきました①」に続き、その②の記事になります。
まずは前回のおさらい。岩槻城を地図にて今昔を確認してみましょう。
↑こちらが新曲輪(岩槻城跡公園)にあります案内板の図。
↓そしてこちらが明治時代の地図と、平成26年現在のグーグルマップ(時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 さんのページを利用させてもらいました)
元荒川のカタチが大きく変わっているという点と、岩槻城にあった沼地がほとんど『街』になったことがわかります。
さて前回は新曲輪から鍛冶曲輪まで空堀の遊歩道を進んでみました。今回は鍛冶曲輪から「菖蒲池」と名付けられている池に進んでみます。
かつては沼地の中にあった岩槻城。現在は数少ない沼地の面影の残る菖蒲池です。菖蒲池という名前がついていますが、蓮の葉がびっしりと水面に広がっていました。
池の中央に赤い欄干のついた橋が見えます。
八ツ橋です。カタチがギザギザとクランクが連続しているようで特徴的な橋です。
橋の途中から水面を見下ろすと、びっしりと広がった蓮の葉を堪能できます。夏場ですと蓮の花も見事なのではないでしょうか。
立派な鯉もたくさん泳いでいます。
よく見てみると、公園内の樹木には手作りのかわいらしいプレートがそれぞれにかけられていました。
野鳥を見かけても、そっと見守りましょう。(別記事・・・岩槻公園でカワセミを見ました)
元荒川沿いの公園入口まで来てみました。元荒川沿いの道を少し進んでみましょう。
しばらく進みますと、見えてきたのは特急きぬ。ロマンスカーです。
東武特急スペーシアの登場で引退されましたが、今見てもとっても迫力満点の先頭車両です。
お子さんだけでなく、大人も昭和の雰囲気を味わえ楽しめるのではないでしょうか。
公園を進んでみましょう。
人形の街ならではの、人形によるからくり時計もあり、広い芝生の広場も広がっています。この広場の中にある池で、野生のカワセミをみました(→その時の記事はこちら)
公園内にありました看板によると、やまぶきの花が区の花として制定されたようです。
看板のすぐ近くにやまぶきの花がかわいらしく咲いていました。
岩槻城跡公園をぐるりと一周し終わりました。最後に公園の中央にあります案内板です。
地図をみると、大きな城だったことがわかります。が、残っている遺構はほんの少しです。
岩槻城 岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説や、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田)城主となる成田氏とする説など様々です。 16世紀の前半には太田市が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資(うじすけ)が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。 北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長(こうりききよなが)が城主となりました。 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。 室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。 岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た大地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構(おおがまえ)が造られました。 城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。 現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。
以上、案内板より引用。
猫に見つめられながら、岩槻城跡公園を後にしてみます。
そして向かうは「本丸跡」。本丸跡の碑と案内板が、ガソリンスタンド(出光)さんの敷地内にあります。
本丸の中央に位置していた場所です。写真は県道2号線(旧国道16号)
この記事の冒頭に見てもらいました地図に再登場してもらいます。右のグーグルマップ中央やや右寄りにあります、県道2号ぞいのガソリンスタンドがこちらです。
~略~
このあたりは、岩槻城の本丸にあたっています。本丸は城の中の中心部で、厳重な防備が施されるとともに、藩政の中心となっていました。ほぼ正方形の外周を高さ6m前後の土塁が取り囲み、南西・南東両炭と南辺に張り出した枡形(※)の3か所には櫓が配置され、さらに枡形に開いた出入り口には二階建ての櫓門が設けられていました。内部に設けられた本丸御殿は江戸時代前期には、徳川将軍の日光社参の際には宿泊御殿としても使用されました。
左上の図は、江戸時代後期の本丸を描いた絵図です。江戸時代中期以降本丸御殿の維持は困難となり、岩槻城の中心機能は本丸から二の丸、そして三の丸へ移転したため、この絵図では本丸御殿は描かれていませんが、櫓や門の外観が描かれていて、その概要を知ることができます。
~略~
(※)枡形・・・城の曲輪(くるわ)の出入り口に設けられた防御施設。通路を屈折させて敵の城内への直進を防いだ。また味方の出撃の際には隊形を整えるはたらきもあった
以上、抜き出して引用しました。
岩槻城の訪問記はこれで終わりになります。またどこかに訪問しました際には記事にしてみたいと思います。
弊社は石材店。古い記録をのこしている石材や石碑を取り扱っています。地域の歴史を大切に伝えていくことと、家族の歴史を大切に伝えてくことは、どちらもともに大切なことです。弊社のお墓づくりも後々の世の人の役に立つように心掛けていきたいと思います。
※岩槻と言えば、岩槻光輪浄苑やいわつき聖地霊園も遠くないエリアです。ご興味ある方はそれぞれの墓地の紹介ページもご覧ください。岩槻光輪浄苑の墓地紹介ページ、いわつき聖地霊園の墓地紹介ページ