2014年11月13日 木曜日 晴れ
こんにちは。首都圏にて墓石の製造加工と墓地への据付施工工事をしております石材店の大塚ブログ「霊園とお墓のはなし」です。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉のほか東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご案内しております。
先月末の様子になりますが、長野県上田市にあります上田城跡公園の紅葉の写真をいただきましたので記事にしてみます。
上田城の本丸への入口、東虎口櫓門の手前です。左の三階櫓が紅葉の樹木と一緒に見えてとても綺麗ですね。門の手前で何やら武将さんたちがいます。記念写真撮ったりしています。
真田日本一の兵(つわもの)と称された武将の真田幸村と、真田十勇士の中から筧十蔵と猿飛佐助がこの日は「出陣」しているとか。赤い人が幸村さんなのでしょうね。
こちらには、右に真田幸隆(祖父)、左に真田昌幸(父)、中央に真田幸村(次男)と真田三代の顔出しパネルがあります。幸村さんのお兄さんの真田信之さん(長男)はないのでしょうか。(ないんですね・・・)
真田は大国に挟まれた小勢力でした。幸隆の代に甲斐の武田に帰順し信濃攻略や越後の上杉との争い、上野攻略など常に前線で活躍しました。昌幸は兄が二人いたため、武田信玄の小姓を務めていましたが信玄没後の長篠の戦で二人の兄を失い、真田家を継ぐこととなります。武田家没落の後は、関東の北条氏、越後の上杉謙信、信濃と甲斐をいち早く抑えた徳川家康という大勢力に囲まれて生き延びねばなりません。頼るべき大樹の武田はもうありません。独立していくため、来るべき大軍を迎え撃つために造られたのがここ上田城と上田の街です。実際に、この時徳川家の大軍を返り討ちにしたりしました(第一次上田合戦)。
北条、上杉、徳川という大勢力を巧みに手玉にとり家の存続をはかった様子を豊臣家五奉行の石田三成や増田長盛から上杉景勝にあてた書面に見られ「表裏比興の者」と評されました。比興(ひきょう)とは、現在では「卑怯」の字をあてたりしますが、本来は「老獪な」や「食わせ者な」といった意味で、武将としては称賛の言葉です。小勢力ながら徳川に勝ち、上杉や北条にも飲み込まれなかったのですから老練さは推し量れます。
豊臣政権下では秀吉から重宝され、その息子の幸村(信繁)は秀吉にたいそう愛され、豊臣の姓をもらったりという厚遇を受けました。幸村の兄である信之はというと、徳川四天王のひとり本田忠勝の息女小松姫を家康の養女として娶り、徳川臣下としての立場を持つようになります。幸村は大谷吉継の娘を娶ります。大谷吉継といえば、石田三成の莫逆の友です。
そして関ヶ原の戦い。戦いは関ヶ原だけではなく、日本中で東西に割れました。会津の上杉討伐に向かった軍が関ヶ原に向かう際、二手に分かれた一手を別働隊として若き徳川秀忠が中山道を率いて上ります。それを待ち構えるのは、ここ上田の真田昌幸、幸村親子。信之は徳川勢です。兄弟を石田勢と徳川勢に分けたあたり、さすが表裏卑怯の将昌幸です。どちらが勝っても真田家は滅亡しません。小国の悲しさからの老獪な選択肢です。昌幸の仕事は上田城で東軍の別働隊の大軍を足止めさせて、大開戦に間に合わせない事。間に合わせなければ上田勢の勝ちです。結果、真田の上田勢の勝ちとなりました(第二次上田合戦)が、世の大勢は東軍の勝利です。勝負に勝って試合に負けたカタチになりました。
その後、江戸開府に伴い徳川勢だった信之は松代藩を起こして真田家を存続させ、昌幸と幸村は高野山に蟄居となります(そして幸村はその後の大阪の役で日本一の兵と称されることになります)。
・・・と、そんな上田城です。
現在の遺構は、関ヶ原戦後に仙石氏によって整えられた城です。真田家の上田城は、戦後徹底的に破却されました。徳川家、二代将軍になる秀忠のメンツをつぶしたのですから、そうなって仕方なかったのでしょう。徳川勢だった真田信之は上田ではなく松代に転封となるのも、味方とはいえ真田の力を弱めるためでしょう。関ヶ原戦後、1622年に仙石忠政が小諸より転封されてきて、改めて上田城を整えて現在に至ります。仙石忠政は、有名な仙石権兵衛久秀の三男です。(仙石久秀といえば、以前書いたこの記事でも触れました→・長宗我部信親(元親の長子)のお墓参りに雪蹊寺に行ってきました)
そんな歴史の城跡も、現在紅葉の真っ最中です。
見上げてみても見事な紅葉です。
もうすぐ紅葉も終わりに近づいてきました。紅葉を見るならお急ぎください。
と、もらった写真だけをたよりに記事を書いてみました。写真をみていると、「あー、私も上田城で紅葉をみてみたいなぁ~」と感じてしまう、ブログ担当のTでした。
またどこかのお城情報を手に入れましたら記事にしてみます。