2016年1月3日 日曜日 晴れ
こんにちは。埼玉県上尾市に本社を置き、埼玉県だけでなく東京、神奈川、千葉、群馬、静岡にて霊園と墓地をご紹介、ご案内し、墓石の製造加工と墓所への据付施工工事という「お墓づくりのお手伝い」をしております石材店の株式会社大塚のブログ「霊園とお墓のはなし」です。
大宮氷川神社に行ってきました。今日は特に暖かく4月のような陽気でした。そして朝一番での参拝でしたので境内はまだまだすいていましたが、祈願をされる方々は朝からずらりと並んでいました。
境内のご神木、高い場所にある枝を見てみるとたいへん苔むしていてとても時間を感じさせられます。
穏やかな冬の澄んだ空気と静かな水面の神池は、鏡のようで絵のようでした。
とっても綺麗でした。
さてそんな氷川神社、おみくじを引こうと三の鳥居の近くまで来たところで、なんと「戦艦武蔵の碑」を発見しました。
場所は、氷川神社の拝殿本殿に向かって三の鳥居をくぐると左手の社務所の手前に見えてきます。
それにしてもいつの間に石碑が建ったのでしょう。石材店の人間ですので、記念碑やモニュメントにも携わることがありますので、そういった意味でもとても惹かれるものがあります。
戦艦武蔵の碑。荒々しくも力強く表面がとても美しい石材です。しかしなぜ海のない埼玉県の氷川神社に戦艦武蔵の碑が?と疑問を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
戦艦武蔵
戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され、最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。
平成27年10月24日建立 戦艦武蔵顕彰会
協賛団体 軍艦武蔵会 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)
※以上、石碑より引用しました。
設立趣旨
連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮後において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。
当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
平成27年10月24日
戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘
権宮司 東角井真臣 揮毫
※以上、こちらも石碑より引用しました。
昨年の10月24日に建立されたということで、まだ2ヶ月しかたっていませんでした。
戦艦武蔵と言えば、昨年海の底に眠る様子が発見され、その映像が世に大きく取り上げられました。話題性もありますので大きく注目を集めることと思います。
氷川神社に行かれましたら、戦艦武蔵の碑も是非ご確認してみてはいかがでしょう。
※過去の大宮氷川神社の記事はこちら